きょうは親戚のおばさんの一周忌の法要がありました。
母と私が案内され、二人行きました。
私たちが親戚の家に着いたあとすぐに和尚さんも到着されました。
予定より10分早く、お経が始まりました。
般若心経、大悲心陀羅尼、舎利礼文は分かりましたが、他のお経は分かりませんでした。
お経が終わってからの和尚さんのお話。
1年前にもこの家に来ました。
1年前のお葬式のとき、きょうここにおられる皆さんは全員いらっしゃったと思います。
私も1年生きてきました。
皆さんも1年生きてこられました。
あっという間の1年だったか、長ーい長い1年だったか、人それぞれでしょう。
私たちは1年という時間を生きてきました。
でもこれは当たり前の1年ではないんです。
命あるものは必ず死が訪れます。
きょう、ここに集まった皆さんは、偶然生きていたんです。
だからきょうここに集まることができました。
生きていると言うことを当たり前だと思わず、生かされていると思わなければなりません。
と言う趣旨のお話だったと思います。
「偶然生きていた」というフレーズが琴線を鳴らしました。
そう言われると、来年の6月29日は生きているかなぁと疑ってもみたくなるのです。
急病や持病の悪化、はたまた事件事故に巻き込まれて、自分の不注意で事故に遭うなどして命を落とすかもしれません。
未来を見ることはできません。
過去をしか見えないのです。
この世に生を受けて50年。
偶然生きていたのでしょう。
生まれたのも偶然、生きていたことも偶然、とすれば死も偶然なのでしょうか?
でも、この世に生まれてきたということは、なにがしかの役目があると思います。
どんな役目を担っているのか知り得たときに、悟りに近付くのかもしれません。
法要の後、会食をしながら従兄が45年前の8ミリカメラの映像をテレビで見せてくれました。
そこには懐かしい人たちがいっぱい映っていました。
小学校入学前の私の姿もありました。
綱引きの応援中に、何故か突然歯磨きをしてしまうという失態を演じていました。
鬼籍に入った人たちが生き生きはつらつと動いている姿を見ることができました。
そこには本家の曾祖父、祖父母の姿もありました。
そして、昨年亡くなったおばさんの、カメラ目線の恥じらいの笑顔に一同大爆笑。
映像の力はすごいです。
きょうは良い供養の日になったと思います。